3月1/8日ライブではロシア国歌を歌いましたので、15/22日はウクライナ国歌を歌いたいと思います。
2003年に若干の修正を加え改定されているのですが、現在でも改定前のバージョンがよく歌われているようです。原曲は3コーラスですが、スポーツイベントなどで国歌斉唱の際に歌われる1番を下に掲載します。
ソフィア・シキチェンコさんの歌唱が素晴らしいので、これを歌詞の上に掲載します。練習は歌詞の下に掲載する動画でしたほうが真っ直ぐの歌唱なのでやりやすいと思います。尚、サビの部分は2回繰り返しですが、ライブでは国歌斉唱バージョンで1回だけでいきます。
(ぜひ他の楽曲もお楽しみください。旧ソ連音楽関係の記事はこちらをクリック。)
「ウクライナは滅びず」
ウクライナは滅びず 栄光も自由も
ウクライナの兄弟たちよ、運命は我らに微笑むだろう
敵は太陽に照らされた霧のように滅びるだろう
兄弟たちよ、我々自身の国を治めよう
自由のために魂と身体を捧げよう
兄弟たちよ、コサックの民であることを示そう!
"Ще не вмерла Україна"
Ще не вмерла України ні слава, ні воля.
Ще нам, браття-українці, усміхнеться доля.
Згинуть наші вороженьки, як роса на сонці,
Запануєм і ми, браття, у своїй сторонці.
Душу й тіло ми положим за нашу свободу,
І покажем, що ми, браття, козацького роду!
参考:2番と3番の歌詞(Wikipediaより)
兄弟よ,サン川からドン川に至るまで血の戦いに起とうではないか
我等は祖国の地の他人の支配を許さない。
黒海はいまだ微笑み,父なるドニエプルは喜ぶだろう
このウクライナの幸福の再来に。
我等の粘り強さと誠実な努力が報われて
いまだ自由の歌はウクライナ全土に響く。
その歌はカルパチア山脈にこだまし,草原へも響き
ウクライナの栄光は他国にも知れ渡ることだろう。
※1コーラスバージョン。最後はこのように上げて終わりましょう。
参考:ウクライナ国歌について Wikipediaより
1862年にパヴロ・チュビンスキーが作詞、1863年にミハイロ・ヴェルビツキーが作曲した。しかしながら当時ウクライナの文化運動に対するロシア帝国の弾圧は強まっており(1863年にヴァルーエフ指令が出されている)、チュビンスキーは「民衆の精神に有害な影響を与えた」とされてアルハンゲリスクに追放された。
ロシア革命が起こった1917年に独立を宣言したウクライナの民族主義者によってウクライナ人民共和国および西ウクライナ人民共和国の国歌に採用され、1920年にソビエト連邦に併合されるまで使用された。
ソ連から独立後、1992年に議会によりウクライナの国歌として復活した。2003年3月6日には最高議会でウクライナ国歌法案が成立。歌詞を一部修正の上、正式に国歌に採用された
※ヴァルーエフ指令は、ロシア帝国内でウクライナ語の使用を制限する秘密指令である。1863年7月18日に皇帝アレクサンドル2世の承認で内相ピョートル・ヴァルーエフによってロシア検閲局への指示として作成された。帝国内でウクライナ語の宗教書、教育書や研究書などを刊行することは禁じられた。
ヴァルーエフ指令の施行によりウクライナ語の出版が著しく減少し、ウクライナの啓蒙組織の多くは「分離主義者」として警察によって弾圧された。その結果、ウクライナの知識人の一部がオーストリア帝国のガリツィア地方へ移住し、ガリツィアはウクライナ民族解放運動の中心地となった。
2003年に若干の修正を加え改定されているのですが、現在でも改定前のバージョンがよく歌われているようです。原曲は3コーラスですが、スポーツイベントなどで国歌斉唱の際に歌われる1番を下に掲載します。
ソフィア・シキチェンコさんの歌唱が素晴らしいので、これを歌詞の上に掲載します。練習は歌詞の下に掲載する動画でしたほうが真っ直ぐの歌唱なのでやりやすいと思います。尚、サビの部分は2回繰り返しですが、ライブでは国歌斉唱バージョンで1回だけでいきます。
(ぜひ他の楽曲もお楽しみください。旧ソ連音楽関係の記事はこちらをクリック。)
「ウクライナは滅びず」
ウクライナは滅びず 栄光も自由も
ウクライナの兄弟たちよ、運命は我らに微笑むだろう
敵は太陽に照らされた霧のように滅びるだろう
兄弟たちよ、我々自身の国を治めよう
自由のために魂と身体を捧げよう
兄弟たちよ、コサックの民であることを示そう!
"Ще не вмерла Україна"
Ще не вмерла України ні слава, ні воля.
Ще нам, браття-українці, усміхнеться доля.
Згинуть наші вороженьки, як роса на сонці,
Запануєм і ми, браття, у своїй сторонці.
Душу й тіло ми положим за нашу свободу,
І покажем, що ми, браття, козацького роду!
参考:2番と3番の歌詞(Wikipediaより)
兄弟よ,サン川からドン川に至るまで血の戦いに起とうではないか
我等は祖国の地の他人の支配を許さない。
黒海はいまだ微笑み,父なるドニエプルは喜ぶだろう
このウクライナの幸福の再来に。
我等の粘り強さと誠実な努力が報われて
いまだ自由の歌はウクライナ全土に響く。
その歌はカルパチア山脈にこだまし,草原へも響き
ウクライナの栄光は他国にも知れ渡ることだろう。
※1コーラスバージョン。最後はこのように上げて終わりましょう。
参考:ウクライナ国歌について Wikipediaより
1862年にパヴロ・チュビンスキーが作詞、1863年にミハイロ・ヴェルビツキーが作曲した。しかしながら当時ウクライナの文化運動に対するロシア帝国の弾圧は強まっており(1863年にヴァルーエフ指令が出されている)、チュビンスキーは「民衆の精神に有害な影響を与えた」とされてアルハンゲリスクに追放された。
ロシア革命が起こった1917年に独立を宣言したウクライナの民族主義者によってウクライナ人民共和国および西ウクライナ人民共和国の国歌に採用され、1920年にソビエト連邦に併合されるまで使用された。
ソ連から独立後、1992年に議会によりウクライナの国歌として復活した。2003年3月6日には最高議会でウクライナ国歌法案が成立。歌詞を一部修正の上、正式に国歌に採用された
※ヴァルーエフ指令は、ロシア帝国内でウクライナ語の使用を制限する秘密指令である。1863年7月18日に皇帝アレクサンドル2世の承認で内相ピョートル・ヴァルーエフによってロシア検閲局への指示として作成された。帝国内でウクライナ語の宗教書、教育書や研究書などを刊行することは禁じられた。
ヴァルーエフ指令の施行によりウクライナ語の出版が著しく減少し、ウクライナの啓蒙組織の多くは「分離主義者」として警察によって弾圧された。その結果、ウクライナの知識人の一部がオーストリア帝国のガリツィア地方へ移住し、ガリツィアはウクライナ民族解放運動の中心地となった。

