最初に申し上げておきますが、この投稿は「ロシア憎むべし」という趣旨ではありません。
先日Xにポストしましたが、日本人は周辺のアジア諸国はじめ空襲や原爆といった戦争犯罪を受けた相手であるアメリカに至るまで、それらの国々に対し警戒心がなく無防備です。ところが、ロシアに対してだけは正常な敵対心を持っている。
「なぜだろう?」
という疑問を、考察してみています。
もちろん、「情報の偏り」は一つの要素として考えられます。しかし、それだけだろうか?
以下は、終戦時樺太の有名な女性電話交換手の悲劇のエピソードを演劇にして現在の女子高生が取り組んでいる紹介動画。および、東京都中野区のホームページに掲載されている、戦後満州から引き揚げて来られた区民の方の手記です。このようにして、旧ソ連から受けた被害が脈々と下の世代に、日本各地で語り継がれている現状があります。
もちろん、日ソ不可侵条約を破棄させソ連を対日参戦させたのは米国。しかし現場で被害に遭った人々の身になれば、
「そうだったんですか。じゃぁソ連は悪くありませんね」
とは、ならない。実際に目の前に現れ自分や家族を虐待したのは、ソ連兵なのですから。
いっぽう空襲や原爆については、多くの日本の民間人が目にしたのは、戦闘機や爆撃機、きのこ雲といったもので、米兵ではなかった。したがって、死傷数でいえばソ連からよりも遥かに大きな被害を受けたにもかかわらず、アメリカに対しては感情の修復が進みやすかったのかもしれない。
ですから、実際に米兵が目の前に現れた沖縄の人たちの感情は、本土の人たちとはかなり違うのかもしれない。
そんなことを考えました。
東京都中野区のホームページより、区民の吉田勝さんの手記:
「ソ連兵の暴虐」
区民戦争体験記の中に、終戦時満州(中国東北部)に侵攻してきたソ連兵の暴虐無人な行動を記述したものが少ないので、自分の敗戦後の記録から、ソ連兵に関係ある事柄を抜粋した。
その一
新京(現在の長春)市の捕虜収容所でラジオを聞いていた時、ソ連兵が入って来た。彼は音の出る箱(ラジオ)を見て驚き、手に取って裏を見たり下を見たりしていじっていたが、はずみにガアツと大きな音が鳴った。驚き慌てたソ連兵はラジオを玄関から放り出したのである。彼はラジオも知らなかった。
その二
所生活にも慣れた頃、宿舎にソ連兵が入ってきて盛んに「ウオツカ、ウオツカ」と叫んでいる。機転のきく友人が押入れから燃料アルコールの瓶を取り出し、「ヤポンスキ(日本人)ウオツカ」と言って差し出した。ソ連兵は匂いを嘆ぎ「ハラショウ(良い)」と言うと他から略奪した食べ物一抱えを畳に放りげて出ていってしまった。我々はハラショウだったが、ソ連兵は燃料アルコールを飲んでどうなったろう。
その三
収容所の中を歩いていた時、一見優しそうな女子兵が手招きしながら東の方を指差している。その方向にはトマト畑があってそろそろ収穫時期なのは知っていたが、立入禁止区域なので行けずにいた。
「そうか、トマトをくれるつもりか有難い」と思い、彼女の後をついていった。道を渡り畑に入ると小きいトマトが幾つも赤く熟している。
女子兵がどんどん中に入って行くので「奥のトマトはもっと大きいのか」と物色しながらついて行くと、突然「スマトリーピーズダ」と言って軍袴(ズボン)を脱ぎ、畦に横になった。
驚いたのなんの脱兎の如く逃げ出したのは勿論だ。
それ以降、絶対一人では宿舎から出なかったのは言うまでもない。
一度だけ聞いた「スマトリーピーズダ」が本当はどんな意味か分からないし知りたくもない。
その四
中学時代から愛用していた時計を取られてしまった。しかも彼らの両腕にはすでに略奪した時計が五、六個もついているのだ。ところがソ連兵はリューズの巻き方を知らない。新しく一個をとると腕にしている時計の一つ一つに耳を付け、止まっ ていると外してポイッと捨ててしまう。
最初は悔しかったが、捨てた時計を拾って自分の腕に付ける。拾った中で一番良いのは当然大切に隠していたが、これも帰国途中三八度線を越える直前、ソ連兵に取られてしまった。
帰国後ソ連兵への憎悪を込め、約二十年間腕時計をしなかった。
その五
二十年九月八日、民間人になりすまし避難列車に潜り込んで南下した。女性は暴行から逃れるため一様に坊主頭になり、顔には煤を塗って汚し男装している。列車は全くの不定期で、名もない小駅に何時間も停車することがあった。
すでに車外が暗くなり地平線も見えなくなってからソ連兵が四、五人入ってきた。女あさりだ。胸に手を入れて女を確かめてから、両手両足をばたつかせ泣き叫ぶ女性を次々とデッキに連れ出す。
一人の若い女性がつかまった。母親だろうか、隣にいた一人が立ち上がるとズボンを脱ぎ下半身をあらわにした。しかし、ソ連兵は母親には全く目もくれず押し退け、泣き叫ぶ娘を軽々抱きかかえると五、六メートル通路を進み、その場で押し倒した。
ギャーッ!絶叫が一 声ひびくともう何も聞こえない。いま出来るのは目を車外の暗闇に向け、怒りおののく心を必死に静めることだけだ。
一人の女性が立ち上がって、「男の人達、何してんの、女を見殺しにする気なのノ」と叫んだ。しかし、自動小銃を構えている彼らの前ではなす術もなく、どうしょうもなかった。
その六
敗戦後の満州で、日本人に不安を与えたものは、ソ連兵の脱走兵狩りと女狩りだった。夜 、コツコツコツコツとノックの音が聞こえると、自分たちは瞬間的に立ち上がって風巴場脇の物置に身をひそめ、娘らは二階の押入れから天井裏に隠れた。頃合をみて、家人が今始めて気付いたように大きな声で返事をして、玄関の閂(かんぬき)をガタガ夕、ガタガタとなるべく時間をかけて開け、この間に若者と娘らは完全に隠れることが出来た。
そして、玄関で会話のやりとり、もし脱走兵狩りならば「男、それはこの老人だけだ」と言うし、女狩りなら「婆きんがいるが」と大声で言うことになっていた。
その声によって若者達か娘らのどちらかが顔を出した。布団の数と人数が一致しないと徹底した家捜しをされる怖れがあるからだ。
女狩りをする時、奴らの言葉は決まっていた。「ヤポンスキー、マダム有鴫」(日本人の女いるか)だった。
ロシア語と中国語がゴチャまぜで、これで通じると確信していた。答も「ニェット、マダム没有」(女はいない)で相手に通じ、それから家捜しをすると順序がきまっていた。
脱走兵狩りは正式の任務で大体通訳もつき、女がいても決して手は出さなかったとのことだった。
それにしても何の不安もなく就寝できる今はなんと幸福なことだろう。
最後に一言
は敗戦後の経験の一部に過ぎない。同胞の中には実際ソ連兵の凌辱を受けて筆舌に尽くし難い体験を持ち、それだけに発表すら出来ない方も多数実在するはずだ。
私は平成四年、シベリヤ抑留中に死亡した百余名の同期生の墓参に参加した。かの地で接した人はみんなごく普通の人達であり、むしろ好人物が多かった。しかし、彼等からあの敗戦後の非礼に対する謝罪の言葉はなかった。かつて日本軍が占領したアジアの人々も、日本と日本人に対して同じように考えていると思う。
過去を反省し、「人間をも狂わせてしまう戦争をなくすにはどうすればいいか」「そのために自分が出来ることはなにか」を真剣に考え実行すべき時と思う。
戦争の悲惨さとともに平和の真の有難きを知り尽くしているのは、我々自身に他ならないからだ。
出展:https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kusei/danjyo/heiwa/kiroku/taikenkiroku/heiwanoinori-2.files/yoshida_masaru.pdf
先日Xにポストしましたが、日本人は周辺のアジア諸国はじめ空襲や原爆といった戦争犯罪を受けた相手であるアメリカに至るまで、それらの国々に対し警戒心がなく無防備です。ところが、ロシアに対してだけは正常な敵対心を持っている。
「なぜだろう?」
という疑問を、考察してみています。
もちろん、「情報の偏り」は一つの要素として考えられます。しかし、それだけだろうか?
以下は、終戦時樺太の有名な女性電話交換手の悲劇のエピソードを演劇にして現在の女子高生が取り組んでいる紹介動画。および、東京都中野区のホームページに掲載されている、戦後満州から引き揚げて来られた区民の方の手記です。このようにして、旧ソ連から受けた被害が脈々と下の世代に、日本各地で語り継がれている現状があります。
もちろん、日ソ不可侵条約を破棄させソ連を対日参戦させたのは米国。しかし現場で被害に遭った人々の身になれば、
「そうだったんですか。じゃぁソ連は悪くありませんね」
とは、ならない。実際に目の前に現れ自分や家族を虐待したのは、ソ連兵なのですから。
いっぽう空襲や原爆については、多くの日本の民間人が目にしたのは、戦闘機や爆撃機、きのこ雲といったもので、米兵ではなかった。したがって、死傷数でいえばソ連からよりも遥かに大きな被害を受けたにもかかわらず、アメリカに対しては感情の修復が進みやすかったのかもしれない。
ですから、実際に米兵が目の前に現れた沖縄の人たちの感情は、本土の人たちとはかなり違うのかもしれない。
そんなことを考えました。
東京都中野区のホームページより、区民の吉田勝さんの手記:
「ソ連兵の暴虐」
区民戦争体験記の中に、終戦時満州(中国東北部)に侵攻してきたソ連兵の暴虐無人な行動を記述したものが少ないので、自分の敗戦後の記録から、ソ連兵に関係ある事柄を抜粋した。
その一
新京(現在の長春)市の捕虜収容所でラジオを聞いていた時、ソ連兵が入って来た。彼は音の出る箱(ラジオ)を見て驚き、手に取って裏を見たり下を見たりしていじっていたが、はずみにガアツと大きな音が鳴った。驚き慌てたソ連兵はラジオを玄関から放り出したのである。彼はラジオも知らなかった。
その二
所生活にも慣れた頃、宿舎にソ連兵が入ってきて盛んに「ウオツカ、ウオツカ」と叫んでいる。機転のきく友人が押入れから燃料アルコールの瓶を取り出し、「ヤポンスキ(日本人)ウオツカ」と言って差し出した。ソ連兵は匂いを嘆ぎ「ハラショウ(良い)」と言うと他から略奪した食べ物一抱えを畳に放りげて出ていってしまった。我々はハラショウだったが、ソ連兵は燃料アルコールを飲んでどうなったろう。
その三
収容所の中を歩いていた時、一見優しそうな女子兵が手招きしながら東の方を指差している。その方向にはトマト畑があってそろそろ収穫時期なのは知っていたが、立入禁止区域なので行けずにいた。
「そうか、トマトをくれるつもりか有難い」と思い、彼女の後をついていった。道を渡り畑に入ると小きいトマトが幾つも赤く熟している。
女子兵がどんどん中に入って行くので「奥のトマトはもっと大きいのか」と物色しながらついて行くと、突然「スマトリーピーズダ」と言って軍袴(ズボン)を脱ぎ、畦に横になった。
驚いたのなんの脱兎の如く逃げ出したのは勿論だ。
それ以降、絶対一人では宿舎から出なかったのは言うまでもない。
一度だけ聞いた「スマトリーピーズダ」が本当はどんな意味か分からないし知りたくもない。
その四
中学時代から愛用していた時計を取られてしまった。しかも彼らの両腕にはすでに略奪した時計が五、六個もついているのだ。ところがソ連兵はリューズの巻き方を知らない。新しく一個をとると腕にしている時計の一つ一つに耳を付け、止まっ ていると外してポイッと捨ててしまう。
最初は悔しかったが、捨てた時計を拾って自分の腕に付ける。拾った中で一番良いのは当然大切に隠していたが、これも帰国途中三八度線を越える直前、ソ連兵に取られてしまった。
帰国後ソ連兵への憎悪を込め、約二十年間腕時計をしなかった。
その五
二十年九月八日、民間人になりすまし避難列車に潜り込んで南下した。女性は暴行から逃れるため一様に坊主頭になり、顔には煤を塗って汚し男装している。列車は全くの不定期で、名もない小駅に何時間も停車することがあった。
すでに車外が暗くなり地平線も見えなくなってからソ連兵が四、五人入ってきた。女あさりだ。胸に手を入れて女を確かめてから、両手両足をばたつかせ泣き叫ぶ女性を次々とデッキに連れ出す。
一人の若い女性がつかまった。母親だろうか、隣にいた一人が立ち上がるとズボンを脱ぎ下半身をあらわにした。しかし、ソ連兵は母親には全く目もくれず押し退け、泣き叫ぶ娘を軽々抱きかかえると五、六メートル通路を進み、その場で押し倒した。
ギャーッ!絶叫が一 声ひびくともう何も聞こえない。いま出来るのは目を車外の暗闇に向け、怒りおののく心を必死に静めることだけだ。
一人の女性が立ち上がって、「男の人達、何してんの、女を見殺しにする気なのノ」と叫んだ。しかし、自動小銃を構えている彼らの前ではなす術もなく、どうしょうもなかった。
その六
敗戦後の満州で、日本人に不安を与えたものは、ソ連兵の脱走兵狩りと女狩りだった。夜 、コツコツコツコツとノックの音が聞こえると、自分たちは瞬間的に立ち上がって風巴場脇の物置に身をひそめ、娘らは二階の押入れから天井裏に隠れた。頃合をみて、家人が今始めて気付いたように大きな声で返事をして、玄関の閂(かんぬき)をガタガ夕、ガタガタとなるべく時間をかけて開け、この間に若者と娘らは完全に隠れることが出来た。
そして、玄関で会話のやりとり、もし脱走兵狩りならば「男、それはこの老人だけだ」と言うし、女狩りなら「婆きんがいるが」と大声で言うことになっていた。
その声によって若者達か娘らのどちらかが顔を出した。布団の数と人数が一致しないと徹底した家捜しをされる怖れがあるからだ。
女狩りをする時、奴らの言葉は決まっていた。「ヤポンスキー、マダム有鴫」(日本人の女いるか)だった。
ロシア語と中国語がゴチャまぜで、これで通じると確信していた。答も「ニェット、マダム没有」(女はいない)で相手に通じ、それから家捜しをすると順序がきまっていた。
脱走兵狩りは正式の任務で大体通訳もつき、女がいても決して手は出さなかったとのことだった。
それにしても何の不安もなく就寝できる今はなんと幸福なことだろう。
最後に一言
は敗戦後の経験の一部に過ぎない。同胞の中には実際ソ連兵の凌辱を受けて筆舌に尽くし難い体験を持ち、それだけに発表すら出来ない方も多数実在するはずだ。
私は平成四年、シベリヤ抑留中に死亡した百余名の同期生の墓参に参加した。かの地で接した人はみんなごく普通の人達であり、むしろ好人物が多かった。しかし、彼等からあの敗戦後の非礼に対する謝罪の言葉はなかった。かつて日本軍が占領したアジアの人々も、日本と日本人に対して同じように考えていると思う。
過去を反省し、「人間をも狂わせてしまう戦争をなくすにはどうすればいいか」「そのために自分が出来ることはなにか」を真剣に考え実行すべき時と思う。
戦争の悲惨さとともに平和の真の有難きを知り尽くしているのは、我々自身に他ならないからだ。
出展:https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kusei/danjyo/heiwa/kiroku/taikenkiroku/heiwanoinori-2.files/yoshida_masaru.pdf

