12月8日のコラムでロシアのシンガーソングライターの祖、ブラート・オクジャワをご紹介しました。そのオクジャワと並ぶロシアの60年代詩人、アンドレイ・ヴォズネセンスキーをご紹介します。彼は歌ではなく「詩の朗読」なので「R-POP」かは微妙ですが、R-POP界に大きな影響を与えた詩人であることは間違いありません。
米国では「ビートの詩人」たちのムーブメントの中で、詩に特化したのがアレン・ギンズバーグ、歌も歌っていたのがボブ・ディランというお話をしました。ロシアでは、60年代雪解け時代(スターリンの死後、フルシチョフ時代に、検閲が緩和され芸術面での一定の自由が認められた)の詩人として、歌も歌ったのがブラート・オクジャワ、詩に特化していたのがアンドレイ・ヴォズネセンスキーです。
実は、1980年代の後半に来日したことがあります。私の母校である東京外国語大学の教授/講師陣と仲が良かったので、外遊の際に寄ってくれたのでしょう。ところが、彼の価値を知っているイベント会社なんて無いものですから、せっかく来るというのに誰も舞台のオファーを出さない。そこで、ロシヤ語学科の主任教授が(トルストイやドストエフスキーの翻訳家の原卓也先生)急遽、学内で一番大きな講義室を用意して、そこでヴォズネセンスキーの詩の朗読会が開催されることになりました。まだ移転前、北区西ヶ原の狭い敷地の古い建物だった時代。学生たちは驚いてザワつきました。
「東京の後にニューヨークへ行くそうだね」
「あっちじゃマディソン・スクエア・ガーデンを用意して待ってるんだってよ」
「えらい違いだよね。日本じゃこんな場所で気の毒だね」
そんな会話が聞かれたのを覚えています。やがてヴォズネセンスキーが登場し、詩の朗読会が始まりました。「私はゴヤ」の朗読を今も覚えています。ゴヤは1800年前後のスペインの画家で、宮廷画家でしたが腐敗したスペイン王政を風刺するような絵を描いて追放された人。それに自分をなぞらえた詩。雪解けとはいえ、まだまだ窮屈な時代でした。
下は、YouTubeにあがっていたモスクワの舞台。「本物へのノスタルジー」という詩です。
(ぜひ他の楽曲もお楽しみください。旧ソ連音楽関係の記事はこちらをクリック。)
「本物へのノスタルジー」 アンドレイ・ヴォズネセンスキー
他の人がどうかはわからない
しかし一番残酷だと感じるのは
過去へのノスタルジーではなく
本物へのノスタルジー
まるで弟子が主のもとに行きたがっているみたいだ
だが、行けるのは修道院長だけ
だから行かせておくれよ
仲介者を通さず本物に
私は異質なことでもしたのか
あるいは私でなく、他の人が
私は空き地に落ちるだろう そう感じる
生ける大地へのノスタルジー
誰も君と私を引き裂きはしない
でも、君を抱きしめるとき
とても悲しい気持ちで君を抱きしめる
誰かが君を連れ去っているかのように
孤独は癒されない
庭に向かって盛大に大工仕事
私が憧れているのは作り物にではなく
本物になのだ 息を切らして
倒れた同志の
些細な暴言を聞くとき
私は似たものではなくオリジナルを探しているのだ
彼のことは悲しいよ 本当に
すべてがプラスチックでできている 布でさえ
大雑把に生きるのはもう飽きた
あなたも私も未来には存在しない
そして教会は…
そして私の顔を笑うとき
バカなマフィアが
私はこう言う「愚か者は過去のもの
現在では理解が進んでいる」
蛇口からは真っ黒な水が噴き出す
赤茶色の水が噴き出す、本物を待ちながら
蛇口からは錆びた水が噴き出る
待っている 本物が来るのを
去ったものは去った より良い方へ
でも私はそれを噛む 秘密のように
本物へのノスタルジー
何が来るのか そう、捕まえることはできない
"Ностальгия по настоящему" Андрей Вознесенский
Я не знаю, как остальные,
но я чувствую жесточайшую
не по прошлому ностальгию –
ностальгию по настоящему.
Будто послушник хочет к господу,
ну а доступ лишь к настоятелю –
так и я умоляю доступа
без посредников к настоящему.
Будто сделал я что-то чуждое,
или даже не я – другие.
Упаду на поляну – чувствую
по живой земле ностальгию.
Нас с тобой никто не расколет.
Но когда тебя обнимаю –
обнимаю с такой тоскою,
будто кто-то тебя отнимает.
Одиночества не искупит
в сад распахнутая столярка.
Я тоскую не по искусству,
задыхаюсь по настоящему.
Когда слышу тирады подленькие
оступившегося товарища,
я ищу не подобья – подлинника,
по нему грущу, настоящему.
Все из пластика, даже рубища.
Надоело жить очерково.
Нас с тобою не будет в будущем,
а церковка...
И когда мне хохочет в рожу
идиотствующая мафия,
говорю: ≪Идиоты – в прошлом.
В настоящем рост понимания≫.
Хлещет черная вода из крана,
хлещет рыжая, настоявшаяся,
хлещет ржавая вода из крана.
Я дождусь – пойдет настоящая.
Что прошло, то прошло. К лучшему.
Но прикусываю, как тайну,
ностальгию по-настоящему.
Что настанет. Да не застану.
米国では「ビートの詩人」たちのムーブメントの中で、詩に特化したのがアレン・ギンズバーグ、歌も歌っていたのがボブ・ディランというお話をしました。ロシアでは、60年代雪解け時代(スターリンの死後、フルシチョフ時代に、検閲が緩和され芸術面での一定の自由が認められた)の詩人として、歌も歌ったのがブラート・オクジャワ、詩に特化していたのがアンドレイ・ヴォズネセンスキーです。
実は、1980年代の後半に来日したことがあります。私の母校である東京外国語大学の教授/講師陣と仲が良かったので、外遊の際に寄ってくれたのでしょう。ところが、彼の価値を知っているイベント会社なんて無いものですから、せっかく来るというのに誰も舞台のオファーを出さない。そこで、ロシヤ語学科の主任教授が(トルストイやドストエフスキーの翻訳家の原卓也先生)急遽、学内で一番大きな講義室を用意して、そこでヴォズネセンスキーの詩の朗読会が開催されることになりました。まだ移転前、北区西ヶ原の狭い敷地の古い建物だった時代。学生たちは驚いてザワつきました。
「東京の後にニューヨークへ行くそうだね」
「あっちじゃマディソン・スクエア・ガーデンを用意して待ってるんだってよ」
「えらい違いだよね。日本じゃこんな場所で気の毒だね」
そんな会話が聞かれたのを覚えています。やがてヴォズネセンスキーが登場し、詩の朗読会が始まりました。「私はゴヤ」の朗読を今も覚えています。ゴヤは1800年前後のスペインの画家で、宮廷画家でしたが腐敗したスペイン王政を風刺するような絵を描いて追放された人。それに自分をなぞらえた詩。雪解けとはいえ、まだまだ窮屈な時代でした。
下は、YouTubeにあがっていたモスクワの舞台。「本物へのノスタルジー」という詩です。
(ぜひ他の楽曲もお楽しみください。旧ソ連音楽関係の記事はこちらをクリック。)
「本物へのノスタルジー」 アンドレイ・ヴォズネセンスキー
他の人がどうかはわからない
しかし一番残酷だと感じるのは
過去へのノスタルジーではなく
本物へのノスタルジー
まるで弟子が主のもとに行きたがっているみたいだ
だが、行けるのは修道院長だけ
だから行かせておくれよ
仲介者を通さず本物に
私は異質なことでもしたのか
あるいは私でなく、他の人が
私は空き地に落ちるだろう そう感じる
生ける大地へのノスタルジー
誰も君と私を引き裂きはしない
でも、君を抱きしめるとき
とても悲しい気持ちで君を抱きしめる
誰かが君を連れ去っているかのように
孤独は癒されない
庭に向かって盛大に大工仕事
私が憧れているのは作り物にではなく
本物になのだ 息を切らして
倒れた同志の
些細な暴言を聞くとき
私は似たものではなくオリジナルを探しているのだ
彼のことは悲しいよ 本当に
すべてがプラスチックでできている 布でさえ
大雑把に生きるのはもう飽きた
あなたも私も未来には存在しない
そして教会は…
そして私の顔を笑うとき
バカなマフィアが
私はこう言う「愚か者は過去のもの
現在では理解が進んでいる」
蛇口からは真っ黒な水が噴き出す
赤茶色の水が噴き出す、本物を待ちながら
蛇口からは錆びた水が噴き出る
待っている 本物が来るのを
去ったものは去った より良い方へ
でも私はそれを噛む 秘密のように
本物へのノスタルジー
何が来るのか そう、捕まえることはできない
"Ностальгия по настоящему" Андрей Вознесенский
Я не знаю, как остальные,
но я чувствую жесточайшую
не по прошлому ностальгию –
ностальгию по настоящему.
Будто послушник хочет к господу,
ну а доступ лишь к настоятелю –
так и я умоляю доступа
без посредников к настоящему.
Будто сделал я что-то чуждое,
или даже не я – другие.
Упаду на поляну – чувствую
по живой земле ностальгию.
Нас с тобой никто не расколет.
Но когда тебя обнимаю –
обнимаю с такой тоскою,
будто кто-то тебя отнимает.
Одиночества не искупит
в сад распахнутая столярка.
Я тоскую не по искусству,
задыхаюсь по настоящему.
Когда слышу тирады подленькие
оступившегося товарища,
я ищу не подобья – подлинника,
по нему грущу, настоящему.
Все из пластика, даже рубища.
Надоело жить очерково.
Нас с тобою не будет в будущем,
а церковка...
И когда мне хохочет в рожу
идиотствующая мафия,
говорю: ≪Идиоты – в прошлом.
В настоящем рост понимания≫.
Хлещет черная вода из крана,
хлещет рыжая, настоявшаяся,
хлещет ржавая вода из крана.
Я дождусь – пойдет настоящая.
Что прошло, то прошло. К лучшему.
Но прикусываю, как тайну,
ностальгию по-настоящему.
Что настанет. Да не застану.