中々、寝付けなかった。
真っ暗な田舎の夜。冬の冷たい空気は澄んで、音ひとつたてずしんとしている。霜柱が庭土の表面を持ち上げる音すら聴こえてきそうだ。除夜の鐘を聴いてすぐ神宮に初詣し、賑やかに正月を迎えたのはほんの一週間前だった。手を合わせ祈願したのは、今年一年のことよりもすぐ目の前のこと。三が日、鏡割りとあっという間に過ぎてゆき、新学期が始まろうとしている。そして明日は勝負の日。床の中で丸まっていると、悔しかった去年のことが思い出された。
「飛ぶっちゃが。なんでや」
もつれた糸を、引きちぎりたい。
「なんで負くっとかっ!」
昭和50年代。宮崎市の池内小学校は冬休み明けの始業式の午後に、校区の団地や集落の親子を対象として、地域をあげての凧あげ大会を主催していた。学校行事であり、集団登校のグループをチームとして全校生徒が参加する。ひとつの小学校の校区といっても、都会ではイメージしづらいほど広い。かなり広域に渡る住民の多くが熱中する、一大イベントである。年末から年始にかけ各チームは中心となる上級生の家に集い凧の制作に没頭しており、そこここの家で奮闘する親子たちと様々な形の凧が見られ、町に活気を与えていた。父母、とりわけお父さんたちの熱の入れようが半端ではなく、今から思えば地域に一体感がある、古き良き時代であった。
一年前、4年生のときに父が私たちのチームの制作を指揮するようになった。父は長崎県の出身で、昔よく飛ばしたという長崎のケンカ凧、現地では「ハタ」と呼ばれている型のものを導入した。
形は菱形。骨組みは立横に2本とシンプルだが、横骨を「へ」の字に曲げるのが特徴。これにより風が下に抜けやすい構造になり、浮力を受けて大きな角度で上昇できる。しかし暴れるのが難点で、風との対話が重要になる。操縦が難しいのだ。
我が家に集まりつくったハタであったが、本番にそれをあげたのは上級生だった。さすがに4年生の分際で5・6年生をさしおいてという訳にはゆかない。だが彼らは上手く操れず、凧は地べたを這うばかり。腹がたった私は糸巻きを奪い取って飛ばそうとした。そこへ他の凧が落ちてきて糸が絡まった。ほどこうとあせっていると、無情にも終了を告げるピストルの音。私はそのまま家に帰りわぁわぁ泣いたのだった。
「男が、泣くな。そん気持ゃ、忘るんな」
父も父なりに、初めての勝負に考えるところがあっただろう。そして、「負けっぱなしにすんな。次はなんでん勝て」というのは、幼年時代の私に対する父の一貫した教えだった。
鼓動が静まらず、布団から出た。床の間に自然と足が向く。暗闇の中、広いテーブルの上に2機のハタが寝ている。縦1mほどの大きさ。両方とも、青い長方形の枠の中に黒で数字の「6」が描かれている。青の6番が、我々のチームナンバーだ。
2機つくってあるのは、当日の風の強さによってどちらを飛ばすか選ぶのだ。ひとつは標準タイプ、もうひとつは風が弱い日のために、細い骨でつくってある。風さえあれば、標準のほうが安定する。
「どっちやろか。慎重にせんといかんな」
明日の午前は体育館や教室で、校長や担任の先生が新学期の心構えなど話すのを聞きながら、窓の外の鳥や木の葉の動きを観察することになるだろう。難しいのは、地面近くでは感じなくとも上空には気流が案外あるもの。うっかり凪いだ日だと判断して細い方を選ぶと、暴れて大変になる。
父母や仲間の子たちとの凧つくりは、現代にはない、夢のような時間だったと思う。
今ならまずはホームセンターに竹ひごを買いにゆくだろうが、当時は山に竹を取りにゆくところからであった。丁度よい具合に乾いた竹を探し、枯れ草の上をザクザクと歩きながら物色した。
家に帰るとそれをナタで割り、肥後の守ナイフで細く削って竹ひごをつくる。あぐらをかいた膝の上にぞうきんを敷き、ぐっとナイフを押し当て、竹棒を手前に引いて丹念に削ってゆく。
低学年の小さい子は、もちろん直接戦力にはならない。しかし、側に居て一緒に空気を感じているだけで幸せなのだ。たまに、
「おぅ、ちっとここ押さえちょって」
などと仕事をもらうと嬉しくて仕方がない。そんな風景であった。
ろうそくの火で丹念にあぶって、横骨をへの字カーブに曲げてゆく。息が詰まるような緊張感。ワクワクした眼差しの下級生たち。ゲーム機などないこの時代、子供たちにとりこれほどエキサイティングな娯楽はなかった。
前回の失敗を踏まえて、父と私はあらゆるケースを想定し、2重3重に周到に作戦を練った。
例えば昨年のように、他の凧が落ちてきて絡まってしまうことへの対策。スタートのピストルが鳴っても少しの間、動かずに様子を見ることにした。飛ばない凧は、すぐに落ちてくる。落ちる凧が落ちてから自分たちの凧をあげれば、巻き込まれるリスクが格段に減る。
また上空で絡まってしまったときのためには、ゲイラカイトを飛ばして絡ませ、相手の糸を切る練習をした。糸をたぐっては離し、たぐっては離す。のこぎりで挽くようにして相手の糸の一点に摩擦を加える。もともと長崎ハタは糸にガラス粉を塗ってそうした戦いをするためのケンカ凧。ガラス粉までは塗らないが、そのテクニックは応用できる。もちろんそんな事態は回避すべく接触を避けるのだが、最悪のケースが生じてもなお絶対に勝つための手段を持っておく。
「風があっときゃ、力を入れんで風に乗すっ。凪いだら、糸をたぐって浮力を稼ぐっ」
突風で凧が暴れバランスを崩して地面に近づいてくると、あげようとつい糸を引っ張ってしまいがちだ。しかし、それは逆効果である。そんなときは糸をフッと思い切り緩めて、糸が切れたように張力が断たれた状態にしてやるのだ。すると凧はひとりでにバランスをとり、フワフワと浮いてくる。そこでグッグッと加減しながら徐々に力を加え、立て直す。気流をつかまえ安定したら、もう大丈夫だ。
「そやから、欲張って糸を全部つこうたらイカンとぞ。何メーターかは余らしとかんと」
父の指導で、風を感じハタと一体になるまで、校庭で練習を重ねた。自分がハタになって上空で風乗りをしているというところにまで、感覚は達していた。
凍える空気の中で、2体の愛機と少しの時間を過ごした。うっとりするような、美しいフォルム。親指と人差し指で機体をつまんでみた。適度の張りを与えるため、霧吹きで紙に水を吹きかけ調整してある。抜かりはない。
「ここまでやらぁ、負けてん悔いはねぇやろ」
などとは、微塵も思わない。
「優勝。それ以外や、負けじゃ」
そう、固く心に誓っている。実際、1等以外のイメージが、不思議なほどに無かった。
再び布団に入る。心臓の鳴りは少し、穏やかになっていた。大空に舞う青の6番を頭に思い浮かべながら、静かに眠りに落ちていった。
-------------------------------------------------------------
息子が小学に上がった頃、宮崎に帰省する時に、
「親子3代で凧をつくってみんや?」
と父に事前に電話で提案したことがある。
実家に着くと早速、おじいちゃん(父)はにっこりして、一本の竹を指差したのだった。用意してくれていたのだ。
懐かしい、ハタつくりが始まった。
自分に驚いたことに、竹棒をナイフで削って竹ひごをつくる感覚を、30年近くもの空白を経てなお、体が覚えていた。毎年繰り返し、数えきれないくらいの凧骨を削っていたのだ。染みついてしまっているのだろう。あきれたものだ、そう思いながら、ひざの上に乗せた雑巾の上で竹をひいた。
千葉へ持って帰れるように、小ぶりのハタをつくった。それを校庭にあげにゆく。
池内小学校は、小高い丘の上にある。新春の凧あげ大会は、さながら眼下の町や農村を客席としたパフォーマンスショーのようでもあった。
「おっ、青の6番があがっちょるが」
と、そういえば大会に卒業生のお父さんが駆け付けてくれたのだった。とても嬉しかったのを覚えている。
5年、6年と、大会では2年連続して優勝を飾った。
伝統は弟の代まで引き継がれ、凧師の原家の名は不動のものとなった。もちろん青の6番は目標とされ、二年目からは死闘や確執、競技ルールの問題によるトラブルといったことを経験してゆくことになるのだが。
今日は穏やかな日だ。小ぶりのハタはスーッと青い空に吸い込まれ、気持ちよさそうに泳いでいる。息子に糸巻きと糸を握らせてみた。なんもわからんでいい。おじいちゃんと父ちゃんと、田舎で凧をつくって飛ばしたことがあったな。それだけ覚えちょってくれたら、そいでいい。
ふと、背後に気配を感じた。そう、そうだったと笑みがこぼれた。私は操縦のため、軍手をして両手とも糸を握っていたのだ。両手両足を大きく使い、風と向き合っていた。そして後ろで糸巻きを2・3名の下級生に持たせていた。
「こん凧は暴るっかい、オレが手ぇすべらすかもしらん。したらオマエたち、凧が飛んでいかんごつ、頼むぞ」
下級生たちは、死んでも離すもんかと糸巻きをぎゅっと胸に抱いて握りしめていたのだった。ありがとう。オマエたちんおかげで、オレは安心して勝負できたとよね。
人々はみな、貧しかった。生きるだけで、精一杯だった。
這いつくばるような生活の中でほんの一瞬、一銭の得にもならない、そしてその先にこれといって何もない、勝負にすべてを懸ける日々を、一所の土地にに暮らす人々と共有できた時があった。
空しいことだよと言う人があれば、敢えて反論するつもりはない。しかし、ひとつだけ言えることがある。
どれだけお金を積んだとしても、あのような思い出を買うことは出来ないだろう。
体育館の赤い屋根。そのはるか上空で真っ白な、青の6番の息子が無邪気に遊んでいた。
真っ暗な田舎の夜。冬の冷たい空気は澄んで、音ひとつたてずしんとしている。霜柱が庭土の表面を持ち上げる音すら聴こえてきそうだ。除夜の鐘を聴いてすぐ神宮に初詣し、賑やかに正月を迎えたのはほんの一週間前だった。手を合わせ祈願したのは、今年一年のことよりもすぐ目の前のこと。三が日、鏡割りとあっという間に過ぎてゆき、新学期が始まろうとしている。そして明日は勝負の日。床の中で丸まっていると、悔しかった去年のことが思い出された。
「飛ぶっちゃが。なんでや」
もつれた糸を、引きちぎりたい。
「なんで負くっとかっ!」
昭和50年代。宮崎市の池内小学校は冬休み明けの始業式の午後に、校区の団地や集落の親子を対象として、地域をあげての凧あげ大会を主催していた。学校行事であり、集団登校のグループをチームとして全校生徒が参加する。ひとつの小学校の校区といっても、都会ではイメージしづらいほど広い。かなり広域に渡る住民の多くが熱中する、一大イベントである。年末から年始にかけ各チームは中心となる上級生の家に集い凧の制作に没頭しており、そこここの家で奮闘する親子たちと様々な形の凧が見られ、町に活気を与えていた。父母、とりわけお父さんたちの熱の入れようが半端ではなく、今から思えば地域に一体感がある、古き良き時代であった。
一年前、4年生のときに父が私たちのチームの制作を指揮するようになった。父は長崎県の出身で、昔よく飛ばしたという長崎のケンカ凧、現地では「ハタ」と呼ばれている型のものを導入した。
形は菱形。骨組みは立横に2本とシンプルだが、横骨を「へ」の字に曲げるのが特徴。これにより風が下に抜けやすい構造になり、浮力を受けて大きな角度で上昇できる。しかし暴れるのが難点で、風との対話が重要になる。操縦が難しいのだ。
我が家に集まりつくったハタであったが、本番にそれをあげたのは上級生だった。さすがに4年生の分際で5・6年生をさしおいてという訳にはゆかない。だが彼らは上手く操れず、凧は地べたを這うばかり。腹がたった私は糸巻きを奪い取って飛ばそうとした。そこへ他の凧が落ちてきて糸が絡まった。ほどこうとあせっていると、無情にも終了を告げるピストルの音。私はそのまま家に帰りわぁわぁ泣いたのだった。
「男が、泣くな。そん気持ゃ、忘るんな」
父も父なりに、初めての勝負に考えるところがあっただろう。そして、「負けっぱなしにすんな。次はなんでん勝て」というのは、幼年時代の私に対する父の一貫した教えだった。
鼓動が静まらず、布団から出た。床の間に自然と足が向く。暗闇の中、広いテーブルの上に2機のハタが寝ている。縦1mほどの大きさ。両方とも、青い長方形の枠の中に黒で数字の「6」が描かれている。青の6番が、我々のチームナンバーだ。
2機つくってあるのは、当日の風の強さによってどちらを飛ばすか選ぶのだ。ひとつは標準タイプ、もうひとつは風が弱い日のために、細い骨でつくってある。風さえあれば、標準のほうが安定する。
「どっちやろか。慎重にせんといかんな」
明日の午前は体育館や教室で、校長や担任の先生が新学期の心構えなど話すのを聞きながら、窓の外の鳥や木の葉の動きを観察することになるだろう。難しいのは、地面近くでは感じなくとも上空には気流が案外あるもの。うっかり凪いだ日だと判断して細い方を選ぶと、暴れて大変になる。
父母や仲間の子たちとの凧つくりは、現代にはない、夢のような時間だったと思う。
今ならまずはホームセンターに竹ひごを買いにゆくだろうが、当時は山に竹を取りにゆくところからであった。丁度よい具合に乾いた竹を探し、枯れ草の上をザクザクと歩きながら物色した。
家に帰るとそれをナタで割り、肥後の守ナイフで細く削って竹ひごをつくる。あぐらをかいた膝の上にぞうきんを敷き、ぐっとナイフを押し当て、竹棒を手前に引いて丹念に削ってゆく。
低学年の小さい子は、もちろん直接戦力にはならない。しかし、側に居て一緒に空気を感じているだけで幸せなのだ。たまに、
「おぅ、ちっとここ押さえちょって」
などと仕事をもらうと嬉しくて仕方がない。そんな風景であった。
ろうそくの火で丹念にあぶって、横骨をへの字カーブに曲げてゆく。息が詰まるような緊張感。ワクワクした眼差しの下級生たち。ゲーム機などないこの時代、子供たちにとりこれほどエキサイティングな娯楽はなかった。
前回の失敗を踏まえて、父と私はあらゆるケースを想定し、2重3重に周到に作戦を練った。
例えば昨年のように、他の凧が落ちてきて絡まってしまうことへの対策。スタートのピストルが鳴っても少しの間、動かずに様子を見ることにした。飛ばない凧は、すぐに落ちてくる。落ちる凧が落ちてから自分たちの凧をあげれば、巻き込まれるリスクが格段に減る。
また上空で絡まってしまったときのためには、ゲイラカイトを飛ばして絡ませ、相手の糸を切る練習をした。糸をたぐっては離し、たぐっては離す。のこぎりで挽くようにして相手の糸の一点に摩擦を加える。もともと長崎ハタは糸にガラス粉を塗ってそうした戦いをするためのケンカ凧。ガラス粉までは塗らないが、そのテクニックは応用できる。もちろんそんな事態は回避すべく接触を避けるのだが、最悪のケースが生じてもなお絶対に勝つための手段を持っておく。
「風があっときゃ、力を入れんで風に乗すっ。凪いだら、糸をたぐって浮力を稼ぐっ」
突風で凧が暴れバランスを崩して地面に近づいてくると、あげようとつい糸を引っ張ってしまいがちだ。しかし、それは逆効果である。そんなときは糸をフッと思い切り緩めて、糸が切れたように張力が断たれた状態にしてやるのだ。すると凧はひとりでにバランスをとり、フワフワと浮いてくる。そこでグッグッと加減しながら徐々に力を加え、立て直す。気流をつかまえ安定したら、もう大丈夫だ。
「そやから、欲張って糸を全部つこうたらイカンとぞ。何メーターかは余らしとかんと」
父の指導で、風を感じハタと一体になるまで、校庭で練習を重ねた。自分がハタになって上空で風乗りをしているというところにまで、感覚は達していた。
凍える空気の中で、2体の愛機と少しの時間を過ごした。うっとりするような、美しいフォルム。親指と人差し指で機体をつまんでみた。適度の張りを与えるため、霧吹きで紙に水を吹きかけ調整してある。抜かりはない。
「ここまでやらぁ、負けてん悔いはねぇやろ」
などとは、微塵も思わない。
「優勝。それ以外や、負けじゃ」
そう、固く心に誓っている。実際、1等以外のイメージが、不思議なほどに無かった。
再び布団に入る。心臓の鳴りは少し、穏やかになっていた。大空に舞う青の6番を頭に思い浮かべながら、静かに眠りに落ちていった。
-------------------------------------------------------------
息子が小学に上がった頃、宮崎に帰省する時に、
「親子3代で凧をつくってみんや?」
と父に事前に電話で提案したことがある。
実家に着くと早速、おじいちゃん(父)はにっこりして、一本の竹を指差したのだった。用意してくれていたのだ。
懐かしい、ハタつくりが始まった。
自分に驚いたことに、竹棒をナイフで削って竹ひごをつくる感覚を、30年近くもの空白を経てなお、体が覚えていた。毎年繰り返し、数えきれないくらいの凧骨を削っていたのだ。染みついてしまっているのだろう。あきれたものだ、そう思いながら、ひざの上に乗せた雑巾の上で竹をひいた。
千葉へ持って帰れるように、小ぶりのハタをつくった。それを校庭にあげにゆく。
池内小学校は、小高い丘の上にある。新春の凧あげ大会は、さながら眼下の町や農村を客席としたパフォーマンスショーのようでもあった。
「おっ、青の6番があがっちょるが」
と、そういえば大会に卒業生のお父さんが駆け付けてくれたのだった。とても嬉しかったのを覚えている。
5年、6年と、大会では2年連続して優勝を飾った。
伝統は弟の代まで引き継がれ、凧師の原家の名は不動のものとなった。もちろん青の6番は目標とされ、二年目からは死闘や確執、競技ルールの問題によるトラブルといったことを経験してゆくことになるのだが。
今日は穏やかな日だ。小ぶりのハタはスーッと青い空に吸い込まれ、気持ちよさそうに泳いでいる。息子に糸巻きと糸を握らせてみた。なんもわからんでいい。おじいちゃんと父ちゃんと、田舎で凧をつくって飛ばしたことがあったな。それだけ覚えちょってくれたら、そいでいい。
ふと、背後に気配を感じた。そう、そうだったと笑みがこぼれた。私は操縦のため、軍手をして両手とも糸を握っていたのだ。両手両足を大きく使い、風と向き合っていた。そして後ろで糸巻きを2・3名の下級生に持たせていた。
「こん凧は暴るっかい、オレが手ぇすべらすかもしらん。したらオマエたち、凧が飛んでいかんごつ、頼むぞ」
下級生たちは、死んでも離すもんかと糸巻きをぎゅっと胸に抱いて握りしめていたのだった。ありがとう。オマエたちんおかげで、オレは安心して勝負できたとよね。
人々はみな、貧しかった。生きるだけで、精一杯だった。
這いつくばるような生活の中でほんの一瞬、一銭の得にもならない、そしてその先にこれといって何もない、勝負にすべてを懸ける日々を、一所の土地にに暮らす人々と共有できた時があった。
空しいことだよと言う人があれば、敢えて反論するつもりはない。しかし、ひとつだけ言えることがある。
どれだけお金を積んだとしても、あのような思い出を買うことは出来ないだろう。
体育館の赤い屋根。そのはるか上空で真っ白な、青の6番の息子が無邪気に遊んでいた。