岸田首相のキーウ訪問で日本の「復興支援」が注目されたのを機会に、書いておきたいと思いました。

20代から30代前半にかけて、日本政府の「人道支援」や「復興支援プロジェクト」に携わり、次第にこれはマズいと考えるようになりました。アメリカが政変や戦争で世界中の国をブッ壊して、その後で日本が「人道支援でございます」「復興支援はいかがでしょう」てな感じで出てゆく。その繰り返し。終いにはドンパチが始まると「ああ、次はあそこだなぁ」など臭いがしてくるようになっていました。もはや死の商人と変わらない。送るものが武器なのか医療物資なのかの違いしかない。戦争屋と同じジャンルの人間に、気づけば自分がなっていた。

でも、国が荒れてとても困っている人々が現実に居ることは事実です。ならば今この目の前の人が命をつなぐのに必要なものを提供してあげることが、悪かろうはずはない。そう自分にいいきかせた日々。
今でも、客観的にはそう思います。勝手ですみませんが、現在携わっている方々には、この難局に耐えて何年後かにウクライナに有意義なプロジェクトを提供してほしい。戦争がどのような形で終結するかはわかりませんが、政治家たちは別として、国民の暮らしは元に戻してあげないといけない。日本の役割もあることでしょう。

さていっぽう、自分はどう生きるのか? 悩みましたが、業界から離れることを決めました。破壊は必要ない。戦争が起きないようにするために何かできないだろうか? あれから25年、実に色々なことをやって、ゼンブ失敗して、今ここに居ます。
どんなことをやってどう失敗したのかは、まぁ、折に触れ追々語ってゆくことにします。ダメオヤジの話に興味はないかもしれませんが、個人的な日記のようなものということで。

写真は色あせていますが、アドリア海。フィルムのポケットカメラで撮ったもので、1997年か98年頃。バルカン諸国にそろそろ日本政府の人道支援が出るかなと思い、どんな地域か見ておこうと、ついでがあったときに足を延ばしました。そのプロジェクトには自分の名はないだろうこともわかりつつ。「『紅の豚』の舞台が見られたじゃないか」と変に自分を納得させつつ、潮風にあたりながら、潮時を感じていました。

アドリア海