引っ張って申し訳ないのですが「メランコリー」をまた別の視点で。
 
小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるがフォーライフレコードを設立したのが1975年。アーティストが制作から販売まで一貫して主導権を持とうとする当時としては画期的な出来事でしたが、76年末に出したクリスマスアルバムが不振で一気に会社は危機的な状況へ。丁度、メランコリーがヒットしていた時期のこと。
 
とにかく何かレコーディングして売らなければならないという苦肉の策で拓郎さんが、他の歌手に提供した楽曲のセルフカバーなどによる歌謡曲のカバーアルバムを制作。突貫工事の急ピッチのレコーディングだったそうですが、精神的にもキツかっただろうな〜と強く思います。つまり、アーティストを旧体制から解き放つために作った会社を救うために、旧体制に魂を売るような構図になってしまう。実際、そのような批判も飛びました。「商業主義の音楽業界を変えるはずが、商業主義に走っている」
 
ところがこの「ぷらいべえと」というアルバムが、売れた。オリコンチャート1位を記録。そして、現在では珍しくないJ-POPアーティストによる「カバーアルバム」企画は、実はこの時の拓郎さんが初めてでした。新鮮だったんですね。広く受け入れられた。「ぜんぶ結果論だよ」が拓郎さんの口癖ですがそれにしても、日本の音楽史上重要な意味を持つ先駆的なレコードとなりました。
 
「ぷらいべえと」には、梓みちよさんに提供した「メランコリー」も収められています。フォーライフという会社、つまりその従業員と家族たちの窮地を支えた13曲の中の1曲が「メランコリー」だったのだろうと思います。