GWで娘は孫たちと泊りがけで出かけている。久しぶりに独りの休日、買い物のついでに銀行へ寄ると駅前では若い二人組のグループがギターを弾いて歌っていた。聞き覚えのある、ゆずの昔の曲だ。懐かしさにふと足を止めた。

チラシを配っているのは源さんではなかろうか。と、向こうも気付いたらしく声をかけてきた。
「お久しぶりです。前にお店で歌わせていただいてた源です。覚えてますか?」
「もちろん源さん、元気そうじゃないの」
「お会いできて嬉しいです。美沙季ちゃんも元気してますか」
「うん。結婚して子供も出来て、近くに住んでるよ」
「あの頃はまだ中学生でしたけど。すっかりお母さんかあ」
源さんも歳をとった。髪はすっかり白くなっている。

離婚した夫と、塩焼で「与平」という小さな小料理屋を営んでいた。1階が店で2階が住居の古い木造の家。私も若かった。車で寝泊まりしながら夫と旅をして行徳へ流れ着いたのだ。出会いがあり安くでその物件を借りられたので、居を構えることにした。夫が浦安や船橋の市場で魚と野菜を仕入れて来る。私は昼はヤクルトを売り、夕方から二人で店に立つ。美味いと評判の店だった。中央に大テーブルがあり、お客さんたちはそれを囲むように座る。すると見知らぬ人同士でも、いつの間にか家族のようになってしまう。

夫は料理の腕もあり、若い頃はいい男だった。小柄だが柔道黒帯で喧嘩が強い。信念を曲げないところも頼もしかったが、俺はこうだと言い切る姿に惚れた自分が今はほろ苦い。
趣味の太鼓を妙典中学校で子供たちに教えていた。妙典中は荒れた時代があり、しかし不思議と不良たちが夫には懐いたのだ。年に一度、夏に盛大に塩焼小学校で行われる自治会のお祭りが彼らのハレの舞台だった。
「子供に何か教えるのに金をとっちゃいけねえ」
と無料で教えていたことも、何か子供たちに伝わるものがあったかもしれない。仕事ではなく人間の付き合いをしてくれる大人は少なくなった。

塩焼 夏祭り


そういう男はしかし、歳をとるにつれ世の中との折り合いが悪くなってゆく。例えば自治会のお偉いたちを怒らせてしまった。時代に合わせサマー・イベント風の要素を夏祭りに取り入れようとしたのだが、夫は「そいつぁダメだ」と言う。盆踊りと太鼓の夏祭りはご先祖様の魂を慰めるためにやるものだから混ぜてはいけないと。それはそうだが若い親子のことも考えてあげてと役員たちが言えば普通は折れるものだが、逆に頑なになり「降りる」ということになってしまった。結局その年の太鼓は、火山の噴火で避難して来ていた三宅島の人々を招聘し三宅太鼓の披露となった。自治会長は閉会の挨拶で社会的に意味のあることをしたと言わんばかり誇らし気にその演奏を称えたらしいが、その後に常連客が店にやって来て
「オヤジよ。あんたの言ってるこたあ解るが、この祭りの太鼓は与平太鼓じゃなきゃなんねえ。悔しいよ」
と嘆いた。何よりも、可哀そうなのが年に一度の舞台を失った子供たちだった。そして現金な話だが店としても、打ち上げの宴会などが減り痛手になった。

経営が苦しくなった理由はそれだけではない。妙典駅へ向かう通りや新浜通りに次々とファミレスや回転すし屋が出来た時期があり、家族経営の店は客を奪われ無くなっていった。もっとも私たちを踏み潰したそれら大手も、やがて消えていったのだが。
包丁さばきが評判の夫には、地元スーパーの店長から鮮魚コーナーを頼めないかと引きがあった。正直、家族としてはそのほうがありがたい。毎月決まったお給料が入る。それに娘二人も年頃になる。2階の狭いスペースだけでは生活空間がないから、普通のアパートに引っ越したい。
しかし、いいかげんに仕入れた魚を押し付けられ、それをさばいてパック詰めし誰かわからない客に出すのは「オレの仕事じゃねえ」は、いくらお願いしても変えられなかった。

経済観念がなかった。店に来てくれたスナックの女性たちの店に行き、稼ぎを散財し朝に酔って帰ってくる。女の影がちらつき、ただ側に座っていただけの移り香でないことに気づく日も出て来てしまった。
あなたはあなたでしかいられないから、ここからは離れるよりありません。私は娘たちが普通に暮らせるよう環境を整えて、しっかり学校にも行かせたいのです。あの日から世界が変わった気もするし、目の前の源さんと話していると一続きの時間のようにも思える。

「少し経った頃に本八幡のサーティファーストで子供にアイスクリームを買おうとしたら、バイトで美沙季ちゃんが居たんですよ。偶然に。『お父さん元気ですか?』ってニッコリ笑ってくれて。お店ではお父さんに結構ツッパってたじゃないですか。難しい性格なのかと思ってたんで、こんなに素直でいい子なんだってビックリしました」
その話をずっとしたかったという様子で源さんが語る。そんなことがあったのか。忙しいときに店の手伝いもさせていたので経験豊富で、その後バイト先ではどこでも頼りにされたようだが。与平は別れた夫がしばらく一人でやっていたが、1年ほどで閉店になった。

源さんは店に古いギターを置いて、昔のフォークソングなどをお客さんたちと歌っていた常連だった。美沙季が椎名林檎が好きでリクエストするので、そんな新しい歌手の歌など言われても困ったろうに、源さんは何とかかんとか演ってくれたのだ。懐かしい思い出も拾い集めればたくさんある。今が幸せなことは間違いないが、あの頃が不幸だったかといえば、振り返ればそんなことはない。




※この物語はフィクションであり、登場する名前の人物や店は存在しません。
※写真とリンク動画はイメージであり、物語とはあまり関係ありません。