「あんたの言う通りだったよ」
山坂は溜息をつくと、水出しコーヒーのカップを口へ運んだ。

行徳駅前不二家


長い付き合いだが、山坂が私の店に来ることはめったになかった。行徳駅高架下の2階にある古い喫茶店。最初はこの店と1階の書店しかなかったのだ。時が経ち、パン屋や薬局、立ち食い蕎麦屋などが高架下に並んでいる。山坂はその一角で、不三家ケーキとサーティファーストアイスクリームの加盟店として商売を営んでいた。半年前のある日、どう思うかと相談を受けた。客足が鈍いので綺麗に改装して目を引くようにしたいと言う。
「やめといたら」
こういう場合、下手な気遣いは無用だ。それでは生き残らないと思えば、友人だからこそはっきり言わねばならない。ポイントで値引きがあるとか、客の財布に訴えたほうがよいと私の考えを伝えた。確かに改装すれば目立つかもしれないが同じ場所で商売をやっている者として、千万単位の投資をして元が取れるほど客足が伸びる感覚が持てない。しかし決めている人間に何を言っても仕方がないこともある。山坂は、ついに踏み切ったのだった。
結果はすぐに出た。月々の支払いが大きく、続けても赤字が膨らむだけだ。

「谷内さんの言う通りにしてりゃよかったかな」
ここでの日々を振り返っているのか、遠くなるだろう風景に別れを告げようとしているのか。山坂は窓の外をぼんやり眺めていた。目の前のビルも入れ替わりが激しい。パチンコ屋やスーパーマーケットが出来ては無くなってゆく。久しくとどまりたるためしがないが、とどまっている自分が不思議な存在に時折思えてくる。
「とにかく人件費がよ」
よく聞く店主の嘆きを最後に山坂は口にした。改装代金の支払いがとは言わない。負け惜しみかもしれないが、事実ではある。自分は忙しい時間帯以外はひとりで回すスタイルで店に立ち続けており、何とか大きな病気もせずやって来れている。

山坂が去った後、そこは不三家の直営店となった。人口が多い東京のベッドタウンで「不三家がツブレタ」という評判を立たせたくなかったそうだ。それからさらに何年の月日が流れただろう。

さすがに大手の直営だけあり厳しい環境の中でもよく長く続いたものだ。改札を抜けた正面のパン屋も菓子を扱っているし、不三家方面に歩く方向には銀座に本店を置くコージコースがある。激戦区と言っていい。ケーキという食品は「この辺りではどこが美味しい」という評判が特に女性の間で常に話題になり、家庭のお祝い事にはパティシエがそこで造っているような「美味しいと言われている」店で買う。逆に美味しいという評判を獲得できるなら、駅前一等地に店を構える必要はない。

その不三家直営店もこの9月でいよいよ閉店となった。同じ家主のメトロによれば、商業施設として貸す予定はないという。貸さないとすればメトロが何かに使うのか。まぁ見ているしかない。同じ並びの内側にはメトロ職員用の宿泊施設がある。他の駅にはないそうで、メトロ職員たちの貴重な基地駅となっている。

「マスター、10月もいつも通りで大丈夫ですかね?」
常連客の源が帰り際に聞いてきた。カレンダーを見る。
「うん、大丈夫だよ」
源はアマチュアのフォクシンガーで、毎月2回、私の店で地元の音楽仲間を集めて昔のフォークソングを演奏する宴を催している。客は少ないことが多いが、年に何度かは必ず盛大な日がある。何でもいい、何かやっていれば不思議なエネルギーがそこに持続し波が立つことがある。何もやらなくなった時に場は廃れてゆく。店も、人間も、そして街も。

外は雨。ひと雨ごとに涼しくなってゆく。暑かった夏が終わる。


※この物語はフィクションであり、登場する人物名や店名は実在しません。
※写真はイメージ画像であり、物語とはあまり関係ありません。