3月24日(土)夜は、定例のマイセンライブ。
市川市がほこるフォークソングの巨匠、さだまさしさんの「まほろば」を弾き語りました。



長文になりますが、よろしければお付き合いください。

かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕(ま)きて 死なましものを(巻二・八六)
居明かして 君をば待たむ ぬばたまの わが黒髪に 霜はふるとも(巻二・八九)

上記は磐姫皇后(いわのひめのおおきさき・4世紀)という仁徳天皇の皇后が詠んだ歌で、万葉集におさめられています。本当に彼女が詠んだのかという点には諸説あるようですが、ここではそういうことにします。

磐姫皇后は過激に嫉妬深い女性として知られ、夫である仁徳天皇に妾を寄せ付けませんでした。ところがあるとき彼女が外出した隙に、仁徳天皇は宮中に他の女性を入れてしまいます。激怒した磐姫皇后は出て行ってしまい、別の土地に居座ってしまいました。上記二首は嫉妬心に打ち震えながら仁徳天皇に焦がれる心を歌ったもので、意味はこんな感じでしょうか。

「(巻二・八六) このような恋しい心の痛みが止まないのなら、いっそ深い山奥の岩を枕に眠りにつくようにして死んでしまいたい」

「(巻二・八九) ここで寝ずにあなたを待っています。私の黒い髪に白い霜が降っても」
(黒髪に霜が降るという表現は、文字通り凍える夜に凍結して白くなるという現在進行形の意味と、年老いて白髪になってもという長い時間軸の意味を兼ねている)

和歌の世界では先人の歌を引き継いで新たな作品をつくることを「本歌取り」と言いますが、この「まほろば」という曲は、さだまさしさんが磐姫皇后の歌を引き継いだ壮大なスケールの本歌取りです。様々な人々が様々な解釈を試みていて、まさに千差万別。千人居れば千人の、万人居れば万人の解釈が存在することでしょう。以下、原が感じていることを記しますが解らない部分もかなりあり、正直に「難解・不明」とさせていただきますが、悪しからず。

春日山から飛火野辺り
ゆらゆらと影ばかり 泥む夕暮れ
馬酔木(あせび)の森の馬酔木(まよいぎ)に たずねたずねた 帰り道

作者この曲の制作にあたり何度も奈良の春日大社を訪れたという。飛火野(とぶひの)はその周辺の地名。
馬酔木は春に小さな白い花を房にしてつける万葉植物。馬が食べると酔ったようになるのが名の由来。

遠い明日しか見えない僕と
足元のぬかるみを 気に病む君と
結ぶ手と手の虚ろさに 黙り黙った 別れ道
川の流れは よどむことなく
うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日 再び戻る今日は無い


鴨長明『方丈記』。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」

例えば君は待つと 黒髪に霜のふる迄
待てると云ったがそれは まるで宛名の無い手紙


「居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも」
万葉集、磐之姫皇后。夫の仁徳天皇に、髪の毛が白くなっても待っていますと歌っている。
「宛名の無い手紙」は何を意味するかについては様々の説がある。「愛する人を待ち望むその心は、必ずしも特定の誰かに向けられているものなのか?」・・・難解。

寝ぐらを捜して鳴く鹿の
後を追う黒い鳥鐘の声ひとつ
馬酔の枝に引き結ぶ 行方知れずの懸想文


「懸想文」は恋文。ここも難解。行方知れずのラブレターを木の枝に結ぶという。鹿が鳴くのは雄の雌への求愛行為であることも、イメージが重なる。特定の誰かを求めているのか、あるいは愛し愛される人が欲しいという鳴き声、宛名なき恋文なのか。

二人を支える蜘蛛の糸
ゆらゆらと耐えかねてたわむ白糸
君を捨てるか僕が消えるか
いっそ二人で落ちようか

芥川龍之介の蜘蛛の糸。

時の流れは まどうことなく
うたかたの夢 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日 再び戻る今日は無い

例えば此処で死ねると 叫んだ君の言葉は
必ず嘘ではない けれど必ず本当でもない


難所のクライマックス。「そのために死ねるという愛は、今は私との愛であることは嘘ではないでしょう。けれど私とであることは絶対ではない。身を滅ぼすほどのその愛は、誰かが居るからではなく本来あなたの中にあるもの」

日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹よし 平城山の空に満月


「月」は女性の象徴なのだろう。永遠に光を放つ女性の性とは何なのか。不明。