(「アブない左翼活動家?」からのつづき)

1990年就職ですが、そのすぐ後に就職氷河期が訪れました。

職場はどのような状況であったかというと、後輩が入ってこない訳です。いちばん下のまま。
時を同じくして、事務機革命が起きていました。テレックスやタイプライターから、パソコンメールやワープロの時代へ。年齢が上の世代はついて行けません。勢い「原くん、これ打っといて」と上司たちの手書きの文書がバサバサと私の机に積まれました。自分の担当業務はほかにあり、それだけでも相当なボリューム。その上に雑務が来るので、日々終電に近い状態で会社の床で寝ることもしばしば。お手洗いで裸になって体を拭いていたら警備員さんに見つかったことがあります。「スイマセン、怪しい者ではありません」たって怪しいですよね。
さらに上司たちはみな、自分の下請けとして私を使いたがった。メーカーさんとの打ち合わせなどに同席させられ「じゃこの方針で、原くん見積もり作って」と言いおいて、自分は帰る。完全にパンクしているのですが、それでも「原くん、あれどうなってる?」「まだ出来ないの?」と平気で言ってくる。「仕事量を互いに調整してください」と何度訴えてもダメ。みな上や横にはモノを言わず、下にだけ言う。

仕事の内容も、惨憺たるものが多かった。体制崩壊後に有象無象のブローカーたちが暗躍した時代で、モスクワ支店経由で正体の知れない相手からの見積もり依頼がドカドカ舞い込みました。取捨選択すべきなんですが、モスクワ店はとにかく来た引き合いにはゼンブ東京から見積もりをとるのが仕事と思っているし、東京の人たちも何だかよくわからないけどとりあえず原にやらせとくかになる。
日本製の家電製品や通信・事務機器の引き合いが多かったのですが、その類は世の中にバッタ商品が数多く出回っているんです。メーカーさんが何かの折に二束三文で在庫処分したブツが市場に流れていて、正規ルートでは価格的に勝てない。次第に解ってきますので捨てたい案件いっぱいあるんですが、捨てさせてくれない。
メーカーさんたちも、そういうの解っているんですよね。投資が必要な販売拠点や在庫をつくる案件もやりましたが、開拓者たちの屍が積まれた後にある程度市場が成熟して商売ができるようになる。よほど資本力のある商社が会社戦略として取り組む案件でなければそこまでは持たないし、そうなればメーカーは自分で進出する。

一方で、自分の目的に合うと感じられた仕事もありました。人道支援などがそれ。旧ソ連の貧しい地方の病院に医療機器を提供するプロジェクトなどが、ODAの一環として行われました。お金の出所が日本政府なので、安心です。田舎の病院の保育器の中に生まれたばかりの赤ちゃんが寝ている姿を見て、この仕事やってよかったなという気につかの間なれたものです。
問題は入札に勝つことですが、私はODA業界の異端児でした。しきたりに従わず、本当に安い価格で勝負しようとする。メーカーさんたちはどの商社にも同じ価格で出すので(それにも色々ありますが)、まともにやったら上乗せ分マージンのガマン比べにしかならない。と、思われていたのですが、機材以外の部分、大陸各地への運送費などを業者さんたちと相談して切り詰めたりして、他社のODA業界の人たちを出し抜きました。当時、物流界にも、旧ソ連地域に特徴を出して一旗揚げようというサムライたちが居たんですよね。最終的には、兵どもが夢の跡。大手しか残らなかった。みなどこかで生きているだろうか。
私の手法はしかし、次々に模倣されました。最終的には、マージンを0にして突っ込んだ入札があった。メーカーさんに「落札しました」と報告に行った際、「おめでとうございます」と言われたのですが「実は・・・」という話で。落札後に値引き交渉。いや〜な空気でしたが、それでも何パーセントか落としてくれた。それが最後。
ODAの「業界の輪」に入り、シブとく生きる道もあったかもしれません。が、これは自分でなければ出来ない仕事なのか? 日本の支援物資を困っている人々に届けること自体は意味ある仕事だけど、オレがやらなくても誰かやるだろう。それに、自分は問題あるときにハッキリ手を挙げて言うタイプだから、流れ弾に当たりやすい。

「ここまでだな」
文字通り、ハラを切る覚悟を決めたのでした。

尚、私が業界を去ったすぐ後に、鈴木宗男議員が絡む一連のロシア関連汚職問題が世で騒がれました。ムネオハウス事件が一番有名ですが、国後島発電設備の案件では同業の三井物産からも逮捕者が出ています。私より若い人が捕まっている。一生懸命に仕事をしただけだと思うのですが。

(つづく)