「おっ、いいねえ。ガンバレよ。市川の中学で将棋部があるのは騎惘爐らいでね。ほかのとこにもと待望されてるんだ」
騎惘爐箸いΔ里六篶で中高一貫の有名進学校。高校からは毎年、東大京大はじめ超一流大学に数多く合格している。いかにも将棋部がありそうなところだ。そんな連中が将棋をやれば強いだろう。
「あっ、そうだ。そしたらな」
先生はカバンの置いてあるほうへ行き、名刺をとり出して戻って来た。それをテーブルの上に置く。『将棋指導員 源伸人』と刷られている。
「みなもとのぶとだ。よろしく。私の名はどうでもいいんだが」
そう言って名刺を裏返し、白紙の面に何やらメモを書いた。
『「千葉の将棋情報」で検索。サイトの「文部科学大臣杯小中学校団体戦」をクリック。6/19(日)申し込み締め切り。6/26(日)大会』
リッシとアスカが覗き込む。
「2週間後の日曜日に、中学の将棋の団体戦がある。同じ学校の生徒3人でチームを組んで戦う団体戦だ。中学将棋部の連中の、年間の一番の目標になる大会と言っていい。でもまだ将棋部が出来てなくても、とにかく同じ学校の生徒3人集まれば参加できる。勝ち負けはどうでもいいから今年出といたほうがいいぞ。その経験を踏まえて、来年、再来年だ。どう?もうひとり誘える友だちは居るかい?」
「はい、居ます」
即座にリッシが反応した。既に出る気でいる。将棋を指せる友だちや先輩は何人かピックアップしていて、兼部でもいいから将棋部設立に協力してくれないか話を進めているところだ。
「テニス部とかなんですけど、頼めば出てくれると思います」
アスカがリッシに注意を促すように肩を叩き、小声で話しかけた。
「来週は中間、中間」
6月16日と17日、木曜と金曜が中間試験になっていて、来週は生徒たちの頭の中はテストのことでイッパイになる。そんな状況で将棋の大会のことなど頼めるだろうか。そしてテストが終わるとすぐに週末。申し込み締め切りだ。
「テストか。そりゃタイヘンだな」
「でも、大丈夫です」
それはこっちの話と言わんばかりにリッシが答えた。アスカを制するように肩を押さえながら。しかしアスカも、色々と問題があるぞと考えながらも、リッシに乗る気でいる。
「出とくといいんだけどな。学校にも、将棋部つくるときに『大会にも出ました』って言えるだろ。そういう材料は、あったほうがいい。学校ってカタいとこあるからな。動かすのに苦労する。昔ある学校でがんばったことがあるんだが、教頭に露骨に迷惑な顔されてな」
源先生の目が、つかの間遠くを見た。将棋部をつくるというのは、やはり簡単なことではないらしい。
「まあ、ガンバレ」
二人の肩をポンと叩く。部屋の中には、パシッパシッという駒音が協奏曲のように響いている。

その後もリッシとアスカは、教室の生徒たちに打たれ続けた。初めて指したときのドキドキした鼓動、終わったときの痺れる感覚。それが過ぎると、心の中で覚醒が始まっていた。盤上に駒を滑らせる指先の柔らかな感覚が神経の枝を伝わり、脳内麻薬が分泌される。浮遊感に身をゆだね、しかし流れをコントロールし、味わう。ボクシングで綺麗に顔面にパンチを食らったとき、痛みを超えてエクスタシーを感じるという。こういうことなのだろうか。何度でも打たれたい。危険に慣れ、渇望すらしている。ボコボコになりながら、しかし少しずつ、相手の肉をとらえる感覚も出来てきた。突き刺したヤリがズブッと入ってゆく、弾力。抵抗。ねじ伏せる。逃げる。追う。抑える。絡まる。宙。入れ替わる。目を瞑る。開く。見上げる。天井が回っている。

帰りのバスの中。リッシとアスカは、二人掛けの座席に並んで座り心地よい揺れに身体をあずけていた。曲がりくねった経路を、短い間隔でバス停に停まりながらトロトロと進む。やがてバスは、イオンのある妙典駅付近を過ぎ、行徳バイパスへと抜けた。ようやく広い道路を軽快に走る。新行徳橋。江戸川放水路では、釣り糸を垂れる人々が見える。この辺りはハゼ釣りのメッカで、初夏から晩秋まで、多くの釣り人たちが訪れる。
「な、リッシ。このスピードなら、チャリでもそんなに時間変わらないかもしれないな」
「そうだな。行徳公民館の前、自転車駐められるみたいだったし」
梅雨が明けたら、それもいいかもしれない。それなら、一切お金はかからない。
「面白かったな。あそこ」
リッシがつぶやく。
「うん、また行こう」
アスカも同調した。
橋を渡ると、見慣れた風景がそこにあった。

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※この物語はフィクションであり、実在の人物とはあまり関係ありません。