『第2和室』とプレートに書かれた部屋を、恐る恐る覗いた。開けっ放しにされた襖の向こうは、広い畳の部屋だ。折り畳みの低いテーブルが何脚か置かれ、パシッパシッと駒音が響いている。何か手続きが必要なのだろうか。迷っていると、中から声がした。
「君たち将棋に来たのかい?」
半分以上白髪のおじさんが、テーブルの上に置かれた表に名前を書き入れながらこちらを見ている。
「あ、はい」
飛んできたボールを打ち返すように、リッシが反応した。
「どうぞ。入っていいよ」
靴を脱いで、中に足を踏み入れる。涼しい空気。クーラーがほどよく効いている。ほんのりとした畳の香。塗り壁に木の柱。鉄筋コンクリートの中だが、ここだけは昔の日本の家のようだ。床の間があり、そこは水筒やリュックを置く場所として使われている。
「どこか他のとこで将棋やってたことある?級とか持ってる?」
「いえ、ありません」
リッシが答える。どうやらこの人がここの先生のようだ。飄々としていて、怖い感じでない。
「そうか、学校はどこ?何年生?」
「中山中です。1年」
「ほう、珍しいな。中山中ってどこだっけ?いちばん近い駅は?」
「下総中山です」
「そうか。それじゃ、メチャメチャ遠いって訳じゃないな」
「はい、メチャメチャ遠くはないです」
「将棋のルールは知ってる?」
「はいそれは、大丈夫です」
「よっしゃ。じゃ、まず名前教えて」
畳の上に座り、出された紙に吉村律志、春野飛鳥と並べて書いた。
「それじゃちょっと、やってみるか。座って待ってて」

壁側のいちばん隅の席に座った。見渡すと人数は全部で20人ちょっとだろうか。ほとんどが小学生だ。低学年から高学年まで居る。
「わりと、居心地いいな」
アスカが小声でリッシに話しかけた。
「そうだな。思ったより緊張しないや」
武道の道場のような張り詰めた空気はない。穏やかな時間が流れている感じだ。奥のほうでは、小さい子を連れてきたお母さんたちが談笑している。

先生に名前を呼ばれてやって来たのは、サッカーの青いTシャツを着たおとなしそうな高学年の生徒だった。
「メガネかけた君が吉村くんだね。じゃぁまず、吉村くんから。春野くんは見てて」
リッシの前に座った少年は10秒ほど黙っていたが、おもむろに真ん中と両隣ひとつとびの歩を裏返し、5枚の歩を両手で包んでカチャカチャと振り、パラリと盤上に落とした。歩が3枚、と金が2枚出ている。これが振り駒というヤツか。
「よろしくお願いします」
「あ、よろしくお願いします」
対局が始まった。
少年はゆっくりと自陣の金銀を動かし、玉を固めた。知っている。矢倉という囲いだ。リッシも同じように矢倉に組んでみた。しかしそこから先、どうしたらいいのかよくわからない。適当に歩をつっかけたり桂馬を飛んだりしてみたが、ていねいに対応され全部とられてしまった。こちらの陣地が隙だらけになったところで、相手からの反撃。矢倉の金銀がはがされ、玉の逃げ場がなくなった。負けだ。少年の表情と手つきが穏やかなせいか、打ちのめされた感はない。が、ジワリと痺れがきた。
「よし、それじゃ今度は春野くん。吉村くん横で休憩」
先生の声。吹き抜ける風のような声だ。身をゆだねる。アスカの対局が始まった。
リッシの対局を見ていたアスカは、自分からあまり突っかけないよう慎重に差し手を選んだ。しかし、ジワリジワリと相手の銀が進んできて、陣を破られた。必死で抵抗したものの、竜と馬をつくられてからはその威力が強すぎる。
「負けです」
アスカの手のひらが湿っている。少年は一礼して立ち去った。
「強えぇな」
アスカとリッシは、顔を見合わせた。気づけば二人の、初めての他流試合が終わったのだ。
「おっ、終わったか」
向こうから先生が声をかけてくる。先生は、誰と誰が対戦するというのを指示しながら室内を順繰りと回り、対局を見てアドバイスをしている。

やって来て背後に座った先生が、両手で二人の肩をポンと叩いた。
「それじゃいいか。あのな、将棋ってなぁ年齢あんま関係ないんだ。ちっちゃくても強い子は強い。たくさんやって慣れてる子は強いんだ。慣れるためだと思って、勝ち負けあまり気にせずやってくれ。おーい!」
さっきから、ちょっと差しては部屋中をちょこまか動き回っている座敷わらしのような小さい二人組の子を先生が呼んだ。対局が始まる。「ちっちゃくても強い」と先生が言うからには強いのだろう。リッシは、さっきは矢倉で負けたので今度は穴熊にしてみた。ところが速攻の棒銀がやって来て上から押しつぶされ、簡単にやられた。何が起きたのか訳がワカラナイ。
「吉村くん、相手が居飛車のときに左に穴熊に囲うと今みたいになる。そういうのをひとつひとつ、解ってきゃいいんだ」
離れた場所からだが、先生は見ていたようだ。リッシは軽く頷いた。が、言葉が出ない。横を見るとアスカも険しい表情をしている。いい手はないかじっと考えて何とか指すのだが、次の瞬間相手の駒音ががパツンと響く。しかも、厳しい。間もなく投了に追い込まれた。二人の座敷わらしは、何事もなかったかのようにキャッキャッとじゃれ合っている。ついさっきまで居心地がいい緊張しないと話していたリッシとアスカだが、血の気が引いてゆくのを感じた。いったいここは何処なのか。日常に潜む魔界にでも紛れ込んでしまったのか。

次にリッシの目の前に座ったのは、女子生徒だった。将棋をやる女子も居るのか。同い年くらいに見える。一般的な美人ではないが、独特の魅力がある。いや、そんなことを考えている場合ではない。みっともないところは見せられない。気を引き締める。
が、中飛車であっけなくツブされてしまった。銀がきて、角がきて、飛車に成られて、ほぼ即死だった。女子生徒は、ニコッと笑って立ち去った。何だあれは。魔女か。
横ではアスカが、四間飛車の魔女にフルボッコにされている。
「負けた分だけ強くなるから。負けを稼ぐつもりでガンバレ」
風のような声が吹いてくる。その風が波を起こし、渦が巻いた。渦が心の底に潜ってゆき、潜在意識の中にあるものをさらって吹き上げてきた。
「ボクら、将棋部を創ろうってしてるんです」
知らずに、リッシは口にしていた。

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※この物語はフィクションであり、実在の人物とはあまり関係ありません。