雲が、低く垂れていた。
どんよりとして降りそうで降らない、思わせぶりな梅雨の空だ。
軋むドアの音。生温かな空気が車内に入ってきた。料金箱にコインをふたつ入れる。歩道のコンクリートタイル。そこをめがけて、飛んだ。

バスが行き過ぎると、道の反対側が行徳公民館だった。10メートルほど向こうに信号機の横断歩道がある。が、面倒だ。そのまま突っ切った。くすんだベージュ色のモルタルの壁。市の建物はどこも同じようなものだ。違和感なくガラスの自動ドアをくぐる。二人はエレベーターに乗り、3階のボタンを押した。

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吉村律志と春野飛鳥は、千葉の市川にある市立中山(なかやま)中学校の1年生。小学校時代からの親友だ。
体育祭も終わり中学生活にも慣れてきたところで、以前から温めている計画を実行に移そうとしていた。

学校に、将棋部をつくる。やろう、と誓い合っていた。
中山中には、公立の中学にはめずらしい茶道部や華道部がある。しかし、伝統文化を重んじていそうな割には、将棋部がない。あってもいいはずだ。それに、既存の部活には強く魅かれるものがなく、なんとなくどれかを選んで入部するのは、つまらない。
たいたいみんな、わりと背が高いほうだからバレー部ならいいんじゃないかとか、小学校でバトミントンをやっていたけどバトミントン部がないからテニス部にしようとか。そうやって何かきっかけを見つけて何処かの部に入る。そしていい友だちが出来て充実していると思える時間を送り、その競技をやってよかったと言えるようになる。それが普通なのかもしれない。しかしそうはなれない人間も世の中には居るのだ。たとえば小学生のとき、地元の野球チームやサッカーチームを覗いてみたりちょっとだけ所属してみたりしたものの、競技にはどこか冷めていて熱が入らず、集団からはぐれ者になってしまう。そんなタイプの人間。リッシとアスカは似た者同士。互いに気が合い、いつしか一緒に居ることが多くなっていた。

将棋は、本格的にやっていた訳ではなかった。
二人ともゲームが好きで、一緒によく遊んでいたのだ。ある時、将棋のゲームソフトに出会った。ほかのゲームと違い、運の要素がない。自分の読みが相手を上回っていれば勝つし、そうでなければ負けるのだ。しかも攻略本を読めばスイスイ進めるようになるものでもなく、選択肢が無限と思えるくらいにある。とにかく奥が深い。本を買い、様々な戦法や玉の囲いがあることを知った。まるで戦国時代の戦そのものだ。
「なあ、アスカ。これ面白いなあ。中学に入ったらどっかでやってみたいな」
「部活でも将棋ってあるらしいよ。中山中にはないけど」
「な、つくれないかな?将棋部」
「え?できるのか、そんなこと」
積極派のリッシの行動力に、アスカはいつも驚かされる。だけど、自分の世界を広げてくれるリッシは、アスカにとり一緒に居て楽しい存在だ。

中山中の今年の1年生は6クラス。リッシとアスカは別々のクラスになった。ある日放課後に二人で落ち合い、将棋部のことをリッシの担任の先生に相談してみた。
「キミたち、どこかで将棋やってたのか?」
「あ、いえ、やってたっていうか、その・・・」
「教室とか道場に通ってたとかさ」
「い、いえ、特には・・・」
「段とか級とか、持ってるのか?」
「・・・持ってません」
「そうか」
先生は少し考え、二人にこう告げた。
「まずは人数がそろうかだな。部を設立するには、5人居ないといけない。集まったらまたおいで。話はそれからだ」

職員室を出て、二人で廊下を歩く。一年生の校舎とは別世界だ。中山中にはずっと昔に建てられた旧校舎と一昨年新築されたばかりの新校舎があり、旧校舎を一年生が、新校舎を二・三年生が使っている。職員室があるのは新校舎。幅広の階段の端を、手すりつたって降りた。先生の言葉が残響のように頭に残っている。昇降口。グランドでは野球部やサッカー部が練習している。新入生たちはあらかた4月中にはどこかの部に入った。自分たちは行き場なく彷徨っている。
「なあ、リッシ。メンバー集めは別として、オレたちちょっと説得力ないのかな」
「かもしれないな。どっかで将棋やってて、部活でもやりたいですってんじゃないと」
「思いつきで言ってるんじゃないかって、見られちまうな」
「こいつら、すぐ止めちまうんじゃないかってな」
部を設立するには、色々と面倒な手続きがあるだろう。また、部活の顧問を引き受けてくれる先生を見つけるのがとにかくタイヘンと聞いている。そのタイヘンを押してでも実行に移して、後でとん挫しないか。そうならないことを示すためには、熱意だけでは心もとない。

学校を出ると、二人はアスカの家に直行した。パソコンを立ち上げ、東京や千葉の将棋教室、道場を検索する。
指し方を教えてくれる教室のようなところは月謝制が多く、月額数千円から1万円ほどになってしまうようだ。道場も、安いところがあったとしても交通費を含めるとやはり、一回行けば千円程度はかかってしまう。週一で行けば、月に四〜五千円。とても無理だ。ため息が出る。
「ここは?無料って書いてある」
アスカが、とあるページを開いた。
「行徳将棋クラブ?行徳公民館か」
行徳は同じ市川市内だが、南の東京湾に面したほうにある。市の地形は江戸川放水路で南北に分断されていて、中心部に住んでいる者にとっては行徳という土地はあまり馴染みがない。浦安のディズニーランドに行くときに通るところといったくらいの感覚だ。
アスカが電車の経路を調べる。
「下総中山から西船橋。そこで乗り換えて東西線で行徳。JRと営団線の料金がかかっちゃうな」
「バスはなかったっけ?」
アスカが再び、今度はバスを検索する。すると、歩いて行ける距離にあるショッピングセンター「ニッケコルトンプラザ」の近くから市のコミュニティーバスが出ていることがわかった。
「これだ。百五十円で行けるぞ」
「往復三百円。なら、何とかなるな」
今度の土曜日に行ってみよう。二人でそう決めたのだった。

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※この物語はフィクションであり、実在の人物とはあまり関係ありません。