「対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
合図とともに、最終局が始まった。

午前中に早々と2つ負けがついてしまったので、入賞の目はない。重苦しい気分で昼食をとった後は、いわば消化試合だ。だが、負けるよりは勝って終わりたい。

角道を止め、まずは様子を見る。相手の振り飛車を見て、玉を左辺に移動し矢倉を組む。相手も美濃囲いから高美濃へ。駒組が進んだ。

ずっと振り飛車党だった。将棋教室に通い始めた頃、序盤ですぐにツブされるのを繰り返している自分を見て、先生がすすめてくれたのだ。確かにいいところまでいけるようになった。しかし、大会の成績はパッとしない。
「詰将棋だ。毎日解いてみろ」
言われて本を買ってはみたものの、毎日やることをやっているうちに寝る時間になってしまう。『寝る前に一題だけでも』そう決めてベッドで本を開いたのも、はじめの頃だけだ。
時は流れ、今では教室に行けば下級生ばかり。次々に追い抜かれてゆく。

振り飛車は、相手も振り飛車のときに、どうしたらいいかわからない。それに、居飛車のほうが勝っている子が多い気がした。
「覚えること多いぞ。ダイジョウブか?」
そう言いながら先生は、とりあえずこれ一本でやってみろと、安全に矢倉に組む方法を教えてくれた。しかしそのとりあえずが、ずっと続いているのだが。
「居飛車が強ぇってより、強ぇえヤツが居飛車やってんだけどな。てか、勉強が好きヤツな。戦法変えても楽にはならねぇぞ」
その意味はよく解らなかったが、とにかく何かを変えてみたかった。別のことをすれば、光が注いで停滞から抜け出せるのではないか。

右辺で激しく駒がぶつかり、飛角銀の総交換になった。2八飛、3一飛と飛車を打ち込み合う。手番が相手なのが痛い。4九角。6七の金を狙われている。これを取られたら終わりだ。6八金引。しかし、追い打ちをけるように6七銀が打ち込まれる。
持ち駒の銀を握りしめた。この銀は攻めに残しておきたい。守りに使ってしまえば勝ちが遠ざかる。でも、負けたくない。7九銀。祈りを込め押し付けるように、自陣に置いた。次の瞬間、バツンとものスゴい駒音が響き、8五桂と高美野の桂馬が跳躍した。クラッと目まいに襲われる。7七の銀をかわすか、あるいはここで一手攻めの手を指して逆転のきっかけをつくるか。迷った末、8六銀とかわした。7八銀成、同金、6七金。苦しい、息が詰まりそうだ。ワカナライが、とにかく駒を埋めるしかないだろう。6八銀。
相手の殺気が、フッと和らいだ気がした。スーッと柔らかく手が伸び、7八金。呆然とした。同玉に6七金。大勢は決した。以下数手指し投了した。
「負けました」

「最後6八銀のところで、8五銀と桂をとられたらどうすればいいかワカンナかったんだけど」
少しの沈黙の後、相手が口を開いた。
「え、そしたら7八金、同銀でもう薄くてダメなんじゃ」
「でもこっち、金一枚しかないんで」
局面を戻し色々やってみると、案外難しいことがわかった。逆転までではないが、まだまだやれていたようだ。
「それに8五に銀なんて居られちゃ、玉に上に行かれたときつかまんないっしょ」
言いおいて、相手は二枚の対局カードを持ち立ち上がった。

苦しい時に、ガマンして立ち向かうことができない。流されて、負けてしまう。弱い自分を、また見せつけられた。いつもこうだ。

手合い係のテーブルでは、数名の子が対戦表を興味深げにのぞき込んでいた。係の人が順位決めの得点計算をしている。白けた気分でそれをぼんやり見つめる。
「対局はすべて終了しました。1敗の人は、入賞の可能性がありますので残っておいてください」
アナウンスの声が聞こえる。長居は無用だ。順位が発表されたときの、入賞した連中のまぶしい姿を見るのは耐えられない。

会場を出て、駅への道を歩く。幾度となく、希望と失望を抱き通った道。以前は仲のいい同学年の友達と一緒に歩いたものだ。
「いつか、オレたちも入賞できるよ、きっと。がんばろうぜ」
その友人は中学を受験するために塾に通いはじめ、将棋をやめてしまった。すごいな、正直そう思った。少し遠くにいかれたようで、寂しかった。自分には何があるだろう? よし、将棋をがんばって続けよう。いつかの夢を果たし「ついにやったぜ」と言えれば、対等になれそうな気がした。

そして結局、「いつか」は無かったのだ。

バスが来て、それに乗り込む。スポーツセンター駅が遠ざかってゆく。またこの風景を見る日があるだろうか。それは、今はわからない。

車内では運動部の高校生や中学生たちが楽しそうに話をしていた。自分は、ひとりだった。


※この物語はフィクションであり、実在の人物とは一切関係ありません。